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Story

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 笑い声が聞こえる。

「いつまで、そんなことを言っているの?」

 大人になれと、呆れた顔で。

「また子供のようなことを言って……」

 現実を見ろと、冷めた目で。

「いつまでも夢見がちでは困るのよ」

 たくさんの『正しさ』が、責め立ててくる。

 そしてそれは、自分自身の心さえも。

「本当は、気が付いているのでしょう?」

 首を横に振り、事実を認めないように、現実に抗うように、私は私に背を向ける。

 正しいことを知り、正しさを理解し、大人であろうとする自分に、子供のように無言の抗議を続ける。

「こんなことは、続かないわ。こんな望みは、叶わないわ。それでもあなたは、夢の中へと逃げ出したいの?」

 どことなく、悲し気に。

 なんとなく、寂し気に。

 幼い私の姿を取った、誰かが声をかけてくる。

 私は「それでも」と小さな声を震わせる。

「それでも、信じたいの。いつまでだって。どこまでだって」

 目を閉じて、心を閉じて。

 私は世界を見つめない、現実を見据えない。

「そう、それが、あなたの答えなのね」

 静かに、幼い私が背後から私を抱き締める。

「それなら、もう何も言わないわ。あなたの望みを叶えて」

 か細い感触に、そっと手を触れる。

 夢と希望に満ちていたはずの幼い手は、酷く冷たかった。

「……っ、はっ……」

 そして、目が覚める。

 ああ、夢だったのか。

 まだぼんやりとした頭で、ゆっくりと体を起こす。

 枕元に置いていた本を手に取り、不安を紛らわせるためにページを捲った。

 見知った物語。

 何度も何度も読み返したせいで、すっかりボロボロになってしまった本の内容は、全て暗記してしまっている。

 それでも、幾度となく開いて読み返してしまう。

 この中には、私の全てが詰まっている。私の原点と呼べる一冊だ。

 ふと、外が騒がしいことに気が付いた。

 どうやら随分と長い時間眠ってしまっていたらしい。

 ベッドを出て、私は部屋の外へと出ることにした。

 

 

 

「ここは、一体どこなんでしょう……」

 目を覚ますと、ウィスカは見知らぬ土地にいた。

 周囲には見たこともない建築様式の建物たち。空は深い藍色をしており、日暮れか朝が近いか、といった様子。そして奇妙なことに、空のどこにも太陽や月の姿を認めることはできず、それどころか雲すらも一切見つからなかった。

 足元の感触もどことなく変だ。

 ぶよぶよと、ただの土を踏み締めているにしては軟らかすぎる感覚。しかし、足が沈みこむようなことはなく、確かな弾力が足先を押し返しても来る。

 地面に生えている芝草のようなものも、どうも奇怪な手触りだった。

 不快感はない、むしろ触り心地の良い草原に座っているようなのだが、肌に触れればそれはウィスカもよく知っている植物のものではなく、どちらかと言えば動物のーー

「海の底からー……こんにちはー!」

「きゃぁっ!?」

 周囲の観察をしていたウィスカは、背後から近付く気配に全く気が付かなかった。

 突然奪われた視界に、ウィスカは軽くパニックになりながら、目元を覆っているのが小さな手だということに気が付く。

 小さくて、柔らかい、これは……女の子?

「ふっふっふっ、これぞ必殺、めんだこちゃん目隠しアタック! タコだしね、視界ぐらい奪えないと! まあわたし、墨とか吐けないんだけど」

 うふふふふ! と楽しそうな声が聞こえる。

 困惑するウィスカに、目隠しをしてきた少女らしき存在は問いかける。

「さて問題です。わたしは誰でしょーか?」

「えっ」

「シンキングターイム!」

 チッ、チッ、と少女が時計の真似をする。

 唐突に始まったクイズに慌てながらも、ウィスカは彼女の言葉をしっかり聞いていた

「えっと、めんだこちゃんさん、ですか?」

 自信なさげにウィスカが言うと、

「せいかーい!」

 と元気な声がして、パッとウィスカの視界が明るさを取り戻した。

 ウィスカが振り向くと、そこには予想通り1人の女の子が立っていた。

 海を思わせる淡い色彩のワンピースに、まるで夕陽のような鮮やかなオレンジ色の髪。

 愛らしい外見だが、その頭には目や耳のような部位があり、彼女が人間ではないと、ウィスカは直感的に理解する。

 自信たっぷりな笑顔の少女は、地面に座り込んだままのウィスカにぐっと顔を近付けてきた。

「あなた、お名前は?」

「あ、えっと、ウィスカです。ウィスカ・アリアンロッドと言います」

「ふむふむ、ウィスカちゃんね。じゃあウィスカちゃん」

「はい」

「あなたを逮捕します!」

「ええっ!?」

 彼女の言葉と共に、周囲から一斉に何かがウィスカへと向かってきた。

 それらは、人のようなシルエットをしながら、異形そのものと呼べる外見だった。

 ぬらぬらと光る体表は灰色の鱗に覆われ、頭部には魚のそれがついている。手には水かき、背にはヒレ、かろうじて人間と同じような衣服を身に纏っていることが彼にも文明があると理解させるものの、それがむしろ不気味さを加速させる。

 彼らは一様に三叉の槍を構え、ウィスカへと警戒の目を向ける。

「あなたはめんだこ帝国の領土に無断で侵入しました! なので、身柄を拘束させてもらいます! 警備兵、かかれー!」

 少女の号令に、異形の者たちがウィスカへと迫る。

「えっ、えっ」

 混乱するウィスカの手にはあっという間に枷が嵌められ、異形たちに引っ張り上げられる形で立ち上がらせられた。

「では話はあちらで聞こう」

 異形の一体が、しゃがれた声で告げる。

 そして歩き出す彼に引っ張られる形で、ウィスカは大きな建物の中へと連れて行かれる

こととなってしまった。

 混乱する頭で、ウィスカは現状を理解しようとするものの、何もかもが分からないことだらけだ。

 自分が何をしてしまったのか、むしろ、話を聞かせてほしいのはウィスカの方だった。

 

 

「つまり、目を覚ましたらあそこに倒れていた、と」

「はい……」

 異形の者たちに連れられ、向かった先は巨大なお城のような建物だった。

 お城のよう、とはいえ、その様式はウィスカが見たことのあるものとは大きく違っている。

 形はドーム状であり、入り口から先は大きな柱がいくつも並ぶ通路といくつかの部屋で構成されていた。王城というよりは神殿のようにも見えたが、警備兵たちが「王城」と呼んでいたのでウィスカもお城なのだなぁ、と認識することにしている。

 巨大な通路をいくつか進み、やがて連れてこられたのが今ウィスカのいる部屋だった。

 四方を白い壁に覆われた、静謐さと寂しさを感じさせる部屋だ。

 中心にある机を挟み、ここに連れて来た異形と向かい合って座ったまま、ウィスカは今も事情聴取を続けている。

「そのような話が信じられるか、と言いたいところだが、ふむ、どうしたものか……」

 異形は意外にも紳士的な態度でウィスカに接していた。

 困った顔の彼に、ウィスカもまた、困り顔で尋ねる。

「あの、私もちょっと、現状がどういうことなのか分からないので、少し質問をしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、それで少しでもこの状況が進展するなら答えよう」

「ありがとうございます。あの、ここは、どこなんでしょうか? さっきの女の子、めんだこちゃんさん、でしたっけ? はめんだこ帝国、とか言ってましたけど……」

 先ほどのやり取りを思い出しながら、ウィスカは警備兵たちに命令を出していた少女を思い出す。

 目の前の異形の姿をした警備兵と比べて、彼女はずいぶんと人間らしいというか、可愛らしい姿をしていた。

 それでも、体の特徴からして、彼らと似た種族なのではあろうけど。

 ウィスカの問いに、異形は少し考えた後、ゆっくりと答えてくれた。

「ここはめんだこ帝国。海底都市ルルイエの中に領土を持つ独立国家、ということになっている。先ほどの方はこの帝国を治める女王様、めんだこ様だ。我々臣民にも寛大な心で接してくれる方でな、気軽にめんだこちゃんと呼ぶように、と言いつけられている」

「お、王様だったんですね……」

「ああ。我らを本来支配していた偉大なる神々の血を引く存在であり、我らの希望の象徴でもある」

「なるほど……あの、先ほど、海底都市、と仰いませんでしたか?」

「ああ、言ったが」

「ということは、その、ここは、海底、なのですか?」

「……そうだが?」

 何を当然のことを、とでも言いたげに、異形は訝し気に首を傾げた。

 その反応に、ウィスカは考えた。

 どうやら今自分は海底にいるらしい。

 呼吸はできているし、体が濡れた感触も泳いでいるような感覚もない。歩いてここまで来たわけだし、水中とはとてもじゃないが思えない。

 では、これは、どういった状況でしょうか?

「何か気になることでもあったか?」

 異形が問いかけてくるものの、ウィスカは口を開こうとして固まってしまった。

 気になることと言えば、あらゆることが気になってしまう。

 しかし、

「えーっと、そうですね、その、ちょっと、失礼しますね」

 ウィスカは試しに、自分の頬を思いっきり抓ってみた。

「いひゃい!」

 そして、当然と言えば当然だが、鋭い痛みを感じたウィスカはすぐに手を離した。

「お、おい、急にどうした?」

 心配そうに身を乗り出す異形に、ウィスカは苦笑いを返した。

「いえ、その、てっきり夢なんじゃないかと思いまして」

 ヒリヒリと痛む頬を軽くさすりながら、ウィスカは現状を理解した。

 どういうわけか、私はこの海底都市にきてしまったらしいですね……。

「夢、夢か。確かに、君の存在は我々からしても夢のようだな」

 異形はまだ心配そうにウィスカの頬を見ていた。

 見た目が怖いだけで、優しい人――人? 魚類なのかもしれない。

「私が夢、ですか?」

「ああ。この海底都市は我ら深き者やその眷属たちが住む土地だ。ゆえに人間はいない。だが君は、どう見ても人間だろう」

「まあ、はい、人間のはずです」

「やはりな。一目見た時から人間なのではないか、と思っていたところだ。ということは君は、元々地上に住んでいた、ということだな?」

「は、はい」

 職務としての取り調べ以上に、目の前の彼はどうもウィスカに対する好奇心が勝りつつあるように見えた。

 身を乗り出し、瞳を大きく開く彼の姿は、なかなかにインパクトが強かった。

 ぎょろりと多きな魚の目が、ウィスカをじっと見つめている。

「なあ、地上はどんな場所なんだ? やっぱり、こちらとは全然違うのか?」

「そう、ですね……」

 最初に目が覚めた時点でこの土地が今までウィスカがいた場所とは大きく違うと思っているものの、具体的にどこがどう違うのか、と問われると難しいところだ。

 なんと説明したものか、とウィスカが考えていると、とんとん、とノックの音が部屋に響いてきた。

「入るよー」

 と、室内からの返事も待たず、ドアが開かれる。

 そこには、先ほど出会った少女、めんだこちゃんの姿があった。

「よいしょ、っと」

 彼女はどこからか持ってきたらしい椅子を異形の横に並べ、お行儀よく座った。

「めんだこ様、ああ、いえ、めんだこちゃん?」

 異形の彼が困惑した顔を向けると、彼女はにっこりと笑って答えた。

「続けて続けて! わたしはあとでいいから!」

 さながら順番待ちをしているかのような具合で、彼女はそのまま黙ってしまった。

 にこにこしながら待つその姿に、ウィスカは異形と顔を合わせて互いに苦笑いを浮かべる。

「ああ、そうだな、それでは一応、確認すべきことを改めて聞こう。君はこの海底都市ルルイエ、ひいてはめんだこ帝国に目的があって侵入したわけではないんだね?」

「はい、目を覚ましたらここにいました」

「我々の存在自体、今日初めて知ったと?」

「はい。むしろ、その、どうやったら帰れるか知りたいぐらいです」

「なるほど。一応、我々としても君は本来あり得ない存在でね。敵である可能性も捨てきれないがそれ以上に地上に関する情報源として期待している部分がある。もちろん手放しに君を自由の身にするわけにはいかないが、それでも君とは友好的な関係を築いておきたいと考えている。ゆえに、だ」

「はい」

「我々は君を客人として扱いたいと思っている。もちろん、ある程度の監視はつけさせてもらうが、それでもかまわなければ、君にはここで過ごす間、我々の庇護下にある外部からの客人という立ち位置、立場を与えたいと考えている。どうだろうか?」

「それは、ありがたいですけど、その、いいんですか? 自分で言うのもなんですけど、私、とっても怪しいと思いますけど……」

「君が我らと似たような立場の存在であれば、もちろんもっと疑いの目を向けただろう。何者かの変身した姿であることも考えたが、それ以上に君が突然現れた地上の人間である、という事実が重要だと我々は判断したのだよ。……といったところで、どうでしょう、めんだこちゃん」

 話を振られ、めんだこちゃんは満面の笑みで頷きを返した。

「うん、そんな感じでいいよ! 一応ね、わたしも王女様として立場ってものがあるからさ、こうやってわざわざ捕らえさせてもらったけど、いやー、ごめんね! あ、インス、手錠も外してあげて!」

「分かりました」

 指示を受け、インスと呼ばれた異形はウィスカの手に絡まっていた枷に声をかける。

「おい、もういいぞ」

 その声に、枷が反応し、ずりゅり、と解けて地面に落ちた。

 最初に着けられた時からウィスカはずっと思っていたが、やはりただの枷ではないようだった。絡まり合った海藻のような、人の髪の毛のような何かは、四肢を持つ塊のような姿でわさわさと動き、インスの腰元にぶら下がると再び動かなくなった。

「では、私は一度下がります」

「うん、ありがとー!」

 ぺこり、とウィスカとめんだこちゃんに頭を下げ、彼は部屋を出て行った。

 あっさりと拘束が解かれたことに驚きながら、ウィスカは軽く手首を摩る。

 見た目こそ怖い人たちですけど、案外悪い人ではないのかもしれません。

「よーし、それじゃあまずは、改めて自己紹介しよっか! わたしはめんだこちゃん! このめんだこ帝国のお姫様なの! よろしくね!」

「ウィスカ・アリアンロッドです。よろしくお願いしますね、めんだこちゃん」

「うん!」

 握手を交わし、ひんやりとした手の感触に先ほど目隠しをされたのを思い出す。

 いきなりでびっくりしたとはいえ、なんというか、見た目相応の可愛らしさを感じる行動だった。

 お姫様とのことだったが、元気いっぱいな様子だし、少しお転婆さんなのかもしれない。

「よーし、それじゃあまずは、ウィスカちゃんにお城の中を案内しないとね! ついてきて!」

「はい」

 彼女に連れられて、ウィスカは部屋を出た。

 廊下を進みながら、互いのことを軽く話す。

「へぇ、ウィスカちゃんもお爺様がいるんだ」

「はい。おじいちゃんに育ててもらいました。とっても物知りで、いろんなことを教えてくれるんです」

「すごい! わたしのお爺様はずっと昔に眠っちゃってから全然会えてないんだぁ。久し振りにお話したいなー」

「ずっと眠ってるんですか?」

「うん。ルルイエが海底に来るのと一緒ぐらいに寝ちゃって、そのままずっと寝てるの」

「それは……早く目を覚ますといいですね」

 ウィスカの心配そうな言葉に、めんだこちゃんは少し悩まし気に答える。

「うーん、今はもうちょーっとだけ、寝ててくれた方がいいかも」

「? どうしてですか?」

「実はね、めんだこ帝国ってわたしがこっそりお爺様に内緒で作ったものなの。だから本当はこのお城とか土地はお爺様の土地なんだ。そこをこっそり借りてやってることだから、もうちょっとだけね、寝ててほしいなーって」

 うふふふ、といたずらっぽい笑みを浮かべる彼女に、ウィスカは苦笑いを浮かべてしまう。

 可愛らしいイタズラ、と呼ぶには少々規模が大きすぎやしないでしょうか……。

「臣民もけっこういてね、中でもインスとアイワはすごく働いてくれるの。二人にはたくさん助けてもらってるんだ」

 というわけで! と不意にめんだこちゃんが立ち止まる。

「ここがアイワの部屋だよ。もう起きてるかな?」

 見たこともない素材で作られた扉にめんだこちゃんがノックしようとしたその時、

「どなたか――あら、めんだこちゃん」

「おはよう、アイワ!」

「おはようございます」

 スライドして開いた扉の向こうから現れたのは、すらりと背の高いスレンダーな女性だった。

 真っ黒なマーメイドドレスを身に纏い、青白い素肌をした姿はどこか希薄な印象を抱かせる。しかし、薄茶色の髪に乗った藍色の輪が模様であり、よく見ると髪のように見えた部分もタコの触手であることにウィスカは気付いてしまった。

 この人も、人間じゃないのでしょうか?

「ウィスカちゃん、この人がアイワだよ! わたしの専属使用人兼秘書さんなの」

 めんだこちゃんに紹介されるまま、彼女、アイワは柔和に微笑んだ。

「初めまして、アイワと申します。ええと、ウィスカさん、でよろしいのでしょうか?」

「はい、ウィスカ・アリアンロッドと言います。アイワさん、よろしくお願いします」

 丁寧にお辞儀を返すウィスカに、アイワもまた、深々とお辞儀をして見せた。

「それで、めんだこちゃん、この方とはどちらでお知り合いに?」

「さっき会ったんだー。お城の庭にいたんだよ」

「……もう少し詳しく教えていただけますか?」

 めんだこちゃんの言葉に、彼女の雰囲気が固くなる。

 当然の反応ですよね、と申し訳なく思うウィスカの前で、めんだこちゃんとアイワは二言三言、言葉を交わす。

 そして、

「なるほど、地上から」

「そうなの! すごいよね!」

 アイワから向けられる視線が警戒から興味に変わったのを感じ、ウィスカは再び苦笑いを浮かべた。

 どうやら今日の自分はそこまで興味を示される存在らしい。

「わたしもね、最初から変だなーって思ってたんだよ。いつもの挨拶をしても返ってこなかったし、アイワみたいな髪でもなければ私みたいな耳もないし」

「えっ、あれっていつもやってるんですか?」

 最初にされた目隠しを思い出し、ウィスカは困惑する。

「いつもやってる、というか、いつも言ってる挨拶なの。あ、じゃあせっかくだし、改めてやろっか!」

「えっ」

「海の底からー、こんにちはー!」

 元気いっぱい、めんだこちゃんは手を上げて挨拶をする。

 すると、

「こんたこ~」

 アイワがひらひらと手を振りながら独特な挨拶を返していた。

「はい、ウィスカちゃんもご一緒に!」

「こ、こんたこー……で、いいんですか?」

「うんうん、ばっちり!」

 にこにこしているめんだこちゃんに、ちょっとしたカルチャーショックを受けながらも、ゆるりとした二人の雰囲気にウィスカも何となく、緊張が解れていくのを感じた。

「アイワも起きてきたし、もう少しお城の中を歩いて回ろっか」

「お願いします」

 その後も、ウィスカはめんだこちゃんたちの案内で場内を見て回った。

 外観では広く見えたお城だったが、そのほとんどはめんだこ帝国の臣民たちの部屋に割り当てられているのだという。

 加えて広い食堂と、めんだこちゃんがライブを行うという広間、そして図書室と談話室、最後に今まで使ったことがなかったと言う客間を順に案内された。

「とりあえずしばらくはここを使ってね」

「ありがとうございます。それにしても……」

 ウィスカが客間の入口に視線を向けると、ここまで歩いてくる途中で付いてきた何人もの臣民たちが様子を伺っていた。

「本当に珍しいんですね、私みたいな普通の人間って」

 部屋の中を覗き込む姿は、一様に人間と違う姿をしていた。

 魚の顔を持つ者、クラゲやタコのような髪を持つ者、人型のナマコやウミウシのような姿の者、人と亀を混ぜたような姿の者、下半身が魚になっている者――誰も彼もが、その体にどこかしら海洋生物の特徴を持っている。

 まるで物語の世界に迷い込んでしまったかのようですね、とウィスカは小さな頃祖父に読み聞かせてもらった御伽噺を思い出す。

 亀を助けて海底のお城に連れて行ってもらう話や、海の水が塩辛くなった不思議な理由のお話、そして、人魚姫の悲恋に纏わるお話。

 いくつもの海に関するお話は悲喜こもごも、しかしそのどれもが神秘を内包する大きな海への想いが込められていた。

 山に囲まれた村で育ったウィスカにとって、海は遠い世界の話だった。

 果ての見えないほど多くの塩水で満たされた場所。波が寄せては返す、魚たちの暮らす世界。人々が深くへとたどり着くことのできない、暗くも生命に溢れる空間。

 ウィスカが知る海は、文献や物語の中で見たものだけだった。

 だからこそも今の状況も夢物語のように思えて仕方がない。

「わたしたちからすれば、ウィスカちゃんの方が普通じゃないからねー。本当にどうやってこっちに来たのか覚えてないの?」

「はい、全く身に覚えがないんです」

「うーん、そっかぁ。アイワ、何か分かったりしない?」

「そうですねぇ、我々が魔術や契約の力を用いて地上に出ることは多少聞きますが、地上からこちらに来る、というのは聞いたことがありません。普通の人は辿り着けないはずなんですよ、ルルイエには」

「だよねぇー、うーんむむ」

 悩まし気に腕を組むめんだこちゃんに、ウィスカも必死に思い出そうとする。

 残っている最後の記憶は、図書館で借りてきたいくつもの童話を読んでいたこと。

 新しい魔法を生み出そうとして、ヒントになりそうな童話をいくつも借りてきたのだった。

 それらを広げて読んでいるうちに、うとうとしてしまったところまではなんとなく覚えているものの、気付けばここにいたわけで。

「ま、とりあえずウィスカちゃんはできれば帰りたいってことでいいんだよね?」

「そうですね、旅も続けたいですし。ああ、でも……」

 旅、と自分で言ったところで思い出す。

 元々、自分のしていたのは宛てもなければ果てもない旅だった。

 であれば、

「せっかく普段は来られないような場所に来れたわけですし、こちらで知識をつけて行くのも良いかもしれません。もしご迷惑じゃなければ、しばらく置いてもらうことはできませんか? お仕事とか、私にできることなら何でもやりますので」

 この機を逃すわけにはいかない、とウィスカは知的好奇心を優先させることにした。

 そんなウィスカの言葉を受けて、めんだこちゃんは目を輝かせた。

「ホント!? じゃあねー、じゃあねー、地上の話をたくさん聞かせてほしいな! アイワ、お茶の用意して! 一緒に聞こ!」

「はい」

 微笑んで頷いたアイワもまた、そわそわとした様子で部屋から出て行く。

「インス! あなたも警備臣民代表として聞きにきて!」

 そして、めんだこちゃんが入口に向けて声をかけると、先ほどの魚頭の警備兵、インスがひょっこりと顔を見せた。

「私もよろしいのですか?」

「もっちろん! わたしは二人と一緒に聞きたいんだー」

「では、お言葉に甘えて……ああ、アイワ殿を手伝ってきます」

 ぺこりと頭を下げ、インスもまた、部屋から遠ざかっていく。

「皆も聞きたかったら部屋の中に入っていいからね! あ、でも、くれぐれもお客さんに失礼のないようにすること。いい?」

 部屋の入口、たくさん集まっていた臣民たちはそれぞれに顔を見合わせ、口々にめんだこちゃんの忠告に返事をしながら客室へと入ってきた。

 ぐるりと周囲を囲む、めんだこ帝国の臣民たち。

 その中心で、ウィスカはめんだこちゃんと向かい合ったまま思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 さすがに、圧がすごい。

「? ウィスカちゃん、どうかした?」

「ああ、えっと、その、皆さんにじっと見られてると思うと、少し緊張してしまいまして……」

「あー、慣れないと緊張するよね。わたしも最初はそうだったよ」

「最初、ですか?」

「うん。ほら、わたしはお姫様だからさ、臣民たちにいろいろお話しなきゃいけないの。あとわたし、歌うのが大好きでね。臣民たちを集めてコンサートとかするんだ。そういうのを何度もやってるうちに、すっかり慣れちゃった」

 ライブ、と聞いてウィスカは幼い頃祖父に連れて行ってもらった歌姫の公演を思い出した。

 幼心に、歌の迫力と美しさに圧倒されたのをよく覚えている。

「素敵ですね、ライブ。私も聞いてみたいです」

「おっ、マジ? じゃあ今夜辺りやっちゃう?」

 めんだこちゃんがウキウキとした様子で告げると、同時に周囲の臣民たちも沸き立ち始める。どうやら彼らにとっても、めんだこちゃんのコンサートは楽しみなものらしい。

「今夜って、いきなりできるものなんですか?」

「うん、できるよー。多少準備は必要だけど、基本的にうちのホールで歌うだけだから。曲はお任せで大丈夫?」

「は、はい」

「OK! それじゃ、今夜ご飯を食べたらやろっか!」

 あっという間に決まった夜のライブにウィスカが驚いていると、

「めんだこちゃん、今夜もライブですか?」

「それは良い。お客人にも楽しんでもらえるはずです」

 ティーセットと共にアイワとインスが戻ってきた。

 カップに注がれる液体は、どうも紅茶のようだったが、ウィスカの嗅いだことのない香りを立てていた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 何も入れず、まずは一口。

 甘さを感じるぐらいの柔らかな味わいが口の中に広がっていく。どことなく果実のような香りもするものの、果汁などが含まれている感じはしない。元々の茶葉がそういったフレーバーなのだろう。

 これは、茶葉を分けてほしい……などと思いながら真剣にカップを覗き込んでいると、横から心配そうな声がかかった。

「あの、お口に合いませんでしたか?」

 不安げな視線を向けてくるアイワに、ウィスカは慌てて笑顔を向ける。

「ああ、すみません! その、飲んだことのない味だったので、気になっちゃって……あっ、とっても美味しいですよ!」

 ウィスカの言葉に、彼女はホッと胸を撫で下ろした。

「すみません、祖父がこういったお茶を淹れるのが上手で、私も好きなんです。なので、飲んだことのない茶葉を知るとどうも、気になっちゃいまして」

「分かるー! 興味あることって、どんどん知りたくなっちゃうよねー」

 うんうん、とめんだこちゃんは楽し気に笑って頷いた。

 気恥ずかしさを感じながらお茶をもう一口。

 やっぱり美味しいけど、初めての味。

「ちなみにウィスカちゃんは趣味とかあるの?」

「趣味ですか……えっと、読書とかですかね。新しいことを知るのが好きです」

「いいね! 読書が好きならアイワと趣味が合いそうかな?」

 めんだこちゃんが視線を向けると、アイワはニコリと満面の笑みを浮かべた。

「そうですね、私、本の虫ですので」

「うちの図書室はね、お爺様の持ってた本がたくさん入ってるから、あとで見てみるといいよ。地上にはない本とか、古ーい本とかあると思うから」

「それは楽しみです」

 すでにかなりワクワクしているウィスカだったが、

「でもその前に――質問ターイム!」

 それ以上にワクワクした様子で、めんだこちゃんが大きな声を上げた。

 元気いっぱいな彼女の手には、いつの間にかマイクのようなものが握られており、その先端はウィスカへと向けられているのだった。

「こっちの知識をあげる前に、まずはウィスカちゃんに地上のお話を聞かないとね! というわけで、アイワ、録音よろしく!」

「はい」

 えっ、えっ、と困惑するウィスカの前で、アイワは何やら巻貝を机の上にセットし始め、

「インスは議事録!」

「分かりました」

 インスは紙とペンを用意し始めた。

 あっという間に話を聞く体勢を整えた彼らから、期待に満ち満ちた視線が向けられる。

「それじゃあ最初の質問ね! えーっと――」

 それから数時間、ウィスカはひたすらに質問攻めにされた。

 地上の様子やら、ウィスカの体験したこと、知っている街や村、景色、食べ物や飲み物、文化の違いやそもそも人間という種族のこと、等々。

 事細かに聞かれる内容に、ウィスカはもっている知識を総動員して必死に答え続けた。

 鬼気迫る周囲の様子に、気を全く抜けないままひたすら質問に返答する。

「じゃあ次! ウィスカちゃんが見てきた中で、一番すごかった場所!」

「一番すごかった場所ですか、そうですねぇ……一番は、やっぱりバスアールの街でしょうか。私の住んでいた地域では最大の街で、大きなお城なんかもあるんです」

「お城! いいねー! あっ、お城の形ってうちと似てる? 全然違う?」

「違いますね、むしろ私はこちらがお城だと言われてびっくりしたぐらいです」

「そーなんだ! じゃあじゃあ、最初は何に見えたの?」

「大きな貝に見えましたね」

「なるほどねー、まあそれもそっか。元々ホントに大きな貝だしね、このお城」

「そうなんですか!?」

 こんなにも巨大な貝が実在した、という事実にウィスカは思わず天を仰いだ。

 今いる客間の天井ですらウィスカの背よりずっと高いのに、実際の天井はもっと上にあるのだ。あまりにも、途方もないスケール感。

「地上だと貝から建物作ったりしないの?」

「聞いたことがないですね……だいたいが石造りか、布を使ったテントか、あとは木造ですかね」

「そっかー、すごいねぇ、地上。ここでそんな素材使ったら簡単にボロボロだよ」

 海底だからねー、と笑いながら、めんだこちゃんは机を軽く摩った。

 確かに、こちらに置かれている家具はどれも石や見たこともない硬い素材で作られているものばかりだ。

 柔らかそうなのは、今座っている椅子ぐらいなものである。

「うんうん、だんだん地上のことが分かってきたね。んじゃ次の質問はアイワからいってみよう」

 はい、とマイクを手渡されたアイワは、おずおずと聞く。

「では、僭越ながら……その……先ほどお城があるとのことでしたが、あの、王子様は、いらっしゃるんでしょうか?」

 彼女の言葉からは、強い憧れを感じることができた。

 ぎゅっと両の手を握り合わせ、夢想する世界を見上げるようにしながら、彼女は上気した顔で続ける。

「お城で日夜舞踏会などは開かれているのでしょうか? ああ、でも、王子がいるのでしたら、やはり婚約者のお姫様もおられるのでしょうか? いいえ、きっと舞踏会が行われるのは王子様の婚約者を決めるためですし、それはないですね。であれば、今なお王子様は運命のお相手を探し求めているに違いありません! ああ、王子様! 剣の腕が立ち、笑顔が素敵な、優しく麗しいお方……!」

 もはや途中から質問ですらなくなった彼女の話に、ウィスカは困った顔でめんだこちゃんたちを見た。

 しかし、めんだこちゃんもまた、困ったような笑顔で首を横に振るばかり。

 その隣でインスも頭を抱え、「すまない……」と申し訳なさそうな声を出した。

「彼女は少々夢見がちなところがあるのだ。普段は理知的で、高い知性を持つ素晴らしい女性なのだがな……」

「自分の世界に入っちゃうとこうなんだよねー、まあしばらくすれば戻ってくると思うから、放っといてあげて」

 めんだこちゃんは慣れた様子でアイワからマイクを取り上げると、そのままインスに差し向けて聞いた。

「じゃ、次はインスが質問する番ね」

「ええ、それでは、ふむ……地上の戦士について質問したい。ウィスカ殿は見たところ荒事は得意ではなさそうだが、やはり戦闘を専門とする人々もいるのだろう?」

「そうですね、私の知ってる方ですと、傭兵をやっている人がいましたね」

 ウィスカは旅の途中で出会った剣士たちの話をする。

「なるほど、魔法と剣の合わせ技か」

「うちだと見ない戦い方だね」

「そうなんですか?」

「ああ。海底都市で魔法を使うことができるのはめんだこちゃんだけだ」

 ふふん、と得意げにめんだこちゃんは胸を張る。

「そうなんですね。地上ですと皆魔法を使えるのが当たり前なので、ちょっと不思議な感じがします」

「魔法が特別ではない世界、というのも我々からすれば不思議なものだが、ふむ、良ければ多少魔法を見せてもらうことはできるだろうか?」

「いいですよ」

 ウィスカはにっこりと笑い、小さな青の魔石を取り出す。

 魔力を込めてやると、薄っすらと魔石が光を放ち、やがて光が収まると魔石の代わりに一匹の妖精がウィスカの掌に行儀よく座っていた。

 妖精は周囲を見回した後、指示を待つようにウィスカを見つめる。

「軽くご挨拶してあげてください」

 ウィスカがそう言ってテーブルの上に降ろしてあげると、彼女は少し考えた後、そっとスカートの裾を摘まんでお辞儀をして見せた。

 向かいや周囲を取り囲む海底都市の住人たちは、興味深そうに妖精のことを見つめている。先ほどまで暴走していたアイワですら、食い入るように妖精を見つめていた。

 妖精は静かに顔を上げると、ゆっくりと踊り始めた。

 ゆるりゆるりと優雅に動く中、どこからともなく音楽が鳴り響く。

 妖精の羽が揺れ動く度、瑠璃色のスカートが翻る度、オルゴールのような美しい音が室内に響き渡る。

 音に合わせて踊っているのか、はたまた彼女が踊る度に音が鳴っているのか、どちにせよ、妖精のダンスと響く音色は互いを高め合い美しい調和を作り出している。

 まるで絵本の中の一ページのように、幻想小説の一幕のように、美しい妖精が踊る間、見る者たちは呼吸も忘れて夢中になっていた。

 やがて妖精が動きを止め、再びお辞儀をすると、ようやく我に返った様子の彼らが盛大な拍手を送った。

 それに静かに微笑むと、妖精は空気に溶けるように消えていく。

「こんな感じでどうでしょう?」

 ウィスカが声をかけると、目をキラキラさせためんだこちゃんが勢い良く立ち上がった。

「すっっっっごーい! すごいすごいすごい! わたしもこういう魔法使えるようになりたい! ウィスカちゃん、教えて!」

「えっ、えーっと、そうですね……」

 人に魔法を教える、なんて経験がないウィスカは少し考えた後、手持ちの魔石をもう一つ取り出してめんだこちゃんに見せる。

「魔石さえあれば誰にでもできると思いますけど、その」

 ウィスカは周囲をさっと確認して、軽く首を傾げる。

「もしかしてなんですが、こちらでは魔石って存在しなかったりしますか?」

 辺りを探ってもどこにも魔石の気配を感じられず、ウィスカは不安を感じ始めていた。

 もし魔石が補充できないのだとしたら、手持ちの魔石の量に気を付けなくてはいけない。

「魔石? その石のこと?」

 きょとんとした顔のめんだこちゃんに、顔を見合わせるインスとアイワ。

 どうやら、嫌な予感は当たってしまったらしい。

「魔石がないとなると……めんだこちゃんはどうやって魔法を使うんですか?」

「わたし? わたしはねー」

 彼女は手に持っていたマイクを軽く手の中で回転させる。

 くるり、と回るうちにマイクはいつの間にか姿を変え、月をあしらったステッキになっていた。

「これでー、こう!」

 彼女がそのステッキを軽く振ると、先ほどまで妖精がいたテーブルの上に魔法陣が浮かび上がり、その中心からゆっくりと、小さなウミウシが這い出てきた。

 あらかわいい、とウィスカが思っているのも束の間、ウミウシを押しのけるようにぞる、とタコの足が伸びてくる。

 イソギンチャク、クラゲ、ヒトデ、タコ、さらには見たこともないような虫のような生物、もはや生物かも怪しい半透明の何か――次から次へと出てくる、恐らくは海洋生物の群れ。

 テーブルの上に現れたそれらは、みちみちに折り重なったまま蠢いていた。

「海の仲間たちを呼んでみたんだー。うふふふ!」

 群れの中から、最初に出てきた黄色いウミウシを手に取って、めんだこちゃんは楽しそうに笑う。

 一匹ずつなら可愛らしくも思えた生き物たちだったが、ここまで密集してるとちょっとした恐怖だ。

 そうしてウィスカが何とも言えない顔をしていると、めんだこちゃんは少し考え、もう一度ステッキを振るう。

 すると、テーブルの上にひしめき合っていた海産物たちが少しずつ姿を変えていった。

 色合いはポップなパステルカラーに、そして姿もどことなく丸みを帯び、デフォルメされたフォルムになっていく。

 やがて、テーブルの上はファンシーな可愛らしい生き物たちでいっぱいになった。

「ちょーっとウィスカちゃんには刺激が強すぎたかな? これなら可愛くて良いんじゃない?」

 そう言って、めんだこちゃんは手の上で遊ばせていたウミウシをウィスカに差し出してきた。

 ウミウシもまた、鮮やかなピンク色の体に変化しており、生き物というよりはぬいぐるみのように見えた。

 両手を出してウミウシを迎え入れると、掌にひんやりとした感触が伝わる。ゆったりとした動きで移ってきたウミウシは愛らしく動き回り、落ち着いた様子でウィスカの手の上で動きを止めた。

「これがわたしの魔法! 想い描いた夢を実現するための力なんだ」

「すごいですね、魔石も使わずにこんなに魔法が使えるだなんて」

 笑顔を向けながら、ウィスカはめんだこちゃんから感じられる強い魔力に驚いていた。

 魔力を帯びた魔石はこの辺りには存在しない。でも、めんだこちゃん自身から感じられる魔力はそうとうなものであり、これならば魔石がなくても魔法が使えるのも当然と言える。

 そして同時に、ウィスカは気が付く。

 この海底都市内に魔石は存在しない。しかしそれ以上に、空気中に漂っている魔力の量が圧倒的に地上より多かった。

 これなら、

「ちょっと私も、もう少し試してみてもいいですか?」

「? うん。魔法まだ見せてくれるの?」

「できるかは分かりませんけど……」

 ウィスカはそっとテーブルの上にウミウシを戻してやり、空気中の魔力に意識を向ける。

 この濃い魔力は、都市そのものが持っているというよりは、都市内にある『何か』から流れ込んできているもののようだ。発生源がどこかにあるはずだが、ウィスカにはとても想像がつかなかった。

 魔力を纏め、指向性を与えるように、力と意思を込める。

 祈るようにウィスカが両手を組み集中すると、テーブルの上部に光が集まっていく。

 周囲の臣民たちは集まる光に吸い寄せられるように視線を上げ、めんだこちゃんもわくわくした瞳を向ける。

 少しずつ集まった魔力が形を持ち始める。

 様々な色を含む魔力が混じり合い、やがて宙に現れたのは一匹の馬だった。

 青い体毛を持つ馬が勇ましく嘶きを上げる。その頭には一対の黄金色の角が生え、下半身は鱗を纏った大きな魚の尻尾に変化していた。

「おおー、すごーい!」

 キラキラした視線を向けるめんだこちゃんに、現れた馬がそっと顔を近づける。

 優しく頭を撫でると、馬は気持ち良さそうに目を細めた。

「めんだこちゃんと同じ、いえ、少し違う魔法ですかね?」

「素晴らしい。このような生物がいれば騎馬戦も考慮することができるな……」

 アイワはウィスカの魔法について、インスはその力が生み出した馬そのものに興味が向いているようだった。

「やっぱり、この土地は魔力に満ち溢れているみたいですね。まさか魔石も使わずに魔法が使えるだなんて思ってもいませんでしたけど……」

 土地に溢れる豊富な魔力が、魔石と同等の力を持つことにウィスカは心の底から驚いていた。

 ウィスカが暮らす地上にも、ある程度魔力の濃い場所、溜まっている場所、というのは存在する。

 しかし、そういった場所でも魔法が使える程の濃さにはなり得ない。自然の中で凝縮され、魔石となって初めて魔法の使用に耐え得るものとなる。

 それだけ濃く凝縮された魔力がなければ本来使えない魔法が、ほぼ無条件で使用できるほど、この土地には魔力が満ち溢れていた。

「ウィスカちゃんの魔法もすごいね! あ、ねえねえ、この後さ――」

 馬の頭を撫でながらめんだこちゃんが笑顔を向けたその時、

「し、失礼します!」

 勢い良く部屋に入ってきた魚顔の臣民があった。

 慌てた様子の彼に、インスが立ち上がって聞く。

「どうした?」

「敵襲です!」

「何? めんだこ帝国にか?」

「は、はい。ただ、その……」

「? なんだ?」

 彼は少し迷った後、困惑しきった様子で告げた。

「こちらにいるはずのない存在が現れているのです」

「どういうことだ?」

 聞きながら、インスは部屋を出るべく歩き出した。

 だが、その横を風のように通り抜ける存在が一つ。

「インス、急ぐよ!」

 いつの間にか馬の背に跨っていためんだこちゃんは、あっという間に部屋の外へと消え去っていた。

 その後に続いて、ウィスカも走り出す。

「めんだこちゃん、場所は分かりますか?」

 肉体強化の魔法を自身にかけながら、ウィスカは宙を泳ぐ馬と並走する。

「たぶんこっち!」

 あっという間に通路を進み、二人が城から飛び出すとそこには数体の獣が暴れていた。

 対応している警備兵たちは、鋭い牙や爪、さらには口から吐き出される炎に襲われ厳しい防戦を強いられている。

 犬のような姿をする怪物たちは口の端から炎をちらつかせ、憎悪に染まった瞳を臣民たちに向けていた。

「えいっ!」

 ウィスカが人差し指を向けると、今まさに臣民に飛びかかろうとしていた怪物の一体が宙ぶらりんになる。

 四肢と首に氷の結晶のような枷が出現し、怪物の身動きを完全に封じた。暴れ逃れようとするも、氷の枷はビクともしない。

「今のうちに避難してください!」

 咄嗟に怪物と臣民の間に入り、ウィスカは次の魔法を準備する。

 怪物の数は四体。

 一体はウィスカの前で激しく吠え暴れるが、ウィスカの魔法が逃すことはない。口から吐こうとした炎も、枷の力で封じ込められている。

 しかしその一体を押しとどめ続けたところで意味がないこともウィスカは理解していた。他の三体吠え声を上げ、対峙するウィスカ達を睨み付けている。

 一気に広範囲を攻める魔法でも使うべきでしょうか? いやでも、それだと臣民の皆さんまで巻き込まれてしまいます……。

 ウィスカがどの魔法を使うべきか、と一瞬悩んだその時、

「っ、何、が?」

 すぐ近くから発せられた恐ろしいまでの強大な魔力に、ウィスカの肌が粟立つ。

「よくも……よくもわたしの大切な臣民を傷つけてくれたなー!!」

 見れば、めんだこちゃんが凄まじい魔力を放出しながらステッキを手にしていた。

 天に向けて掲げられたステッキの先、吹き出す彼女の魔力が集まっていく先では、あまりにも強い魔力の塊が空間を歪めながら真っ黒な穴を作り出していく。

 そのあまりにも強大な力に、さすがの怪物たちもめんだこちゃんの方へと視線を向けた。

 ビリビリと、大気が震える。

 辺りの空気が冷たくなっていき、膨大な魔力がはっきりと、束ねられた力へと姿を変えようとしているのが分かった。

 咄嗟に、ウィスカは周囲に防壁を展開する。

 臣民たちが巻き込まれないように、と慌てて用意したものの、正直こんなもので防げるだろうか、と不安が募るばかりだった。

「これでも、くらいなさい!!」

 めんだこちゃんがステッキを振り下ろすと、尖端に集まっていた魔力が解き放たれ、穴の中から巨大な緑色の腕が現れ、鋭いかぎ爪で怪物たちを切り裂いた。

 怪物たちがあっという間に消し飛ぶ。

 抵抗する間もなく怪物たちの体はバラバラになり、その肉片はすぐさま影となり霧散していった。

 ウィスカが身動きを止めていた怪物も含めて、四体の怪物は一気に刈り取られた。そして、地面にも巨大な傷跡を残した緑の巨腕は振り下ろされたまま動きを止め、ゆっくりと砕け崩れ、消えてく。

 めんだこちゃんがふう、と息を吐くと同時、怪物を屠った一撃に少し遅れて、ウィスカが張った障壁が一斉にひび割れ、そして砕け散った。

 あまりの出来事にウィスカが呆然としていると、

「二人とも、無事か!?」

 インスたちが慌てた様子で駆け寄ってきた。

 一瞬で怪物たちを退けためんだこちゃんは、先ほどまでの怒りに満ちた姿など微塵も感じられない様子で、怪物と戦っていた臣民たちに声をかけていた。

「皆、怪我とかしてない? 無事?」

「はい、なんとか無事です……」

「そっか、それなら良かった! いやー、わたしったら最強過ぎてあんな怪物も一瞬で倒しちゃうからね! 皆はめんだこ帝国の臣民であったこと、感謝して良いのだぞー?」

 にこにこと笑って言うめんだこちゃんに、危険と対峙していた臣民たちの表情が一気に明るくなっていく。

「めんだこちゃん、ありがとう!」

「さすが我らがめんだこ帝国の長!」

「めんだこちゃん最高!」

「いあ、いあ、めんだこちゃん、ふたぐん!」

 口々に臣民たちはめんだこちゃんを称える言葉を口にする。

 その中にはウィスカの知らない言葉も混じっていたが、彼らの言葉を聞くめんだこちゃんはとても嬉しそうだった。

「すごい魔法でしたね、驚きました」

 ウィスカが声をかけると、めんだこちゃんはどや顔で答えた。

「まあね! ウィスカちゃんもわたしの臣民たちを守ってくれてありがとう!」

「いえ、私も、もっと躊躇わずに力を使うべきでした。どうにもここでの魔法にまだ慣れていないもので……」

 先ほど行使した魔法は、咄嗟に行ったものであったもののウィスカの想定より強力な効果を発揮していた。

 おそらく、辺りに満ちている魔力のおかげだろう。

 しかし、それがむしろウィスカに躊躇させてしまった。

 いつもの調子で攻撃魔法を放てば、おそらく臣民たちを巻き込んでしまっていたはずだ。

 もう少し、ここでの力加減を練習する必要があるとウィスカは強く感じていた。

「あの、どこか思い切り力を使っても迷惑にならない場所はありませんか?」

 怪物たちの残した傷や破壊跡を確認していたインスに尋ねると、

「それならば、我々の訓練場に案内しよう。誰か、案内を」

 周囲の部下に素早く指示を出してくれた。

 だが、それに応えたのは彼の部下ではなかった。

「それなら、私がご案内しますよ」

 静かに手を上げたアイワが、柔らかく微笑む。

「私も個人的にウィスカさんとお話ししてみたいので、よろしければ訓練場でご一緒させていただけませんか?」

 彼女の提案に、ウィスカは笑顔で頷く。

「ふむ、では頼もうか。私はあの怪物たちがどこから現れたのか調査しよう。めんだこ様、魔法の力をお借りしたいのですが……」

「もちろん! あと、めんだこちゃん、ね?」

「は、すみません……」

 度々やっているらしい二人のやり取りに、周囲の臣民たちが笑い声をあげる。

 和やかな彼らの様子を横目に、ウィスカはアイワに連れられてその場を後にした。

 少し歩いた先、お城のすぐ近くにあった訓練場は広場になっており、今も数名の警備兵らしき異形の臣民たちが三叉の槍を振るって訓練に励んでいた。

 ウィスカも少しずつ彼らの顔に慣れてきたものの、やはり、魚顔の存在が普通に過ごしている姿に違和感を覚えてしまう。

「こちらが警備兵の訓練場です。まだ実戦に出る程の実力がないと判断された者から歴戦の戦士まで、たくさんの兵士の皆さんが訓練していますよ」

 よく見てみれば、訓練を見守る兵士にも個性がある。

 顔に傷を持っている者や、緩やかな動きを交え踊るように槍を振るう者、明らかに周囲の者より強靭な槍を手にしている者など、素人目にも強さの違いが分かるぐらいだ。

「インスさんも、よくこちらに?」

「そうですね、彼は兵長ですから、度々部下たちの訓練を見に来ているみたいです。新人の中で見込みがある方を見つけたりすると嬉しそうに話してくれますよ」

 この間一緒にお酒を飲んでいた時なんて、子供みたいに目をキラキラさせていたんです。

 そう言ってうふふ、と楽しそうに笑う彼女に、つられてウィスカも笑顔を浮かべる。

 めんだこちゃんやアイワを見ていると、女性はどうにも人間に近い姿をしているのがルルイエの人々の特徴らしいと気付く。ここにいる人たちは皆、男性のようだった。

「インスさんは兵長さん、アイワさんは秘書さんでしたよね。アイワさんは普段はどんなことをしてるんですか?」

「私はどちらかと言えば内政や知識に纏わる技術を専門としています。加えてめんだこちゃんのお世話ですね、お料理をしたりお部屋の掃除をしたり遊び相手をしたり、といった具合です。めんだこちゃん自身が忙しい時の代理を務めることもありますね」

「なるほど……それなら、こちらに来てしまっていいんですか? めんだこちゃんの傍にいた方がお仕事としては良いんじゃ?」

 不安そうにするウィスカに、アイワはにっこりと笑う。

「めんだこちゃんが呼んだ時に出向くよう言われていますので、普段はけっこう自由なんですよ。今朝だって、ほら、私、めんだこちゃんよりずっと遅く起きてきたでしょう?」

「あ、確かに」

 ウィスカは先ほど会った時のことを思い出す。

「めんだこちゃんは私たち臣民の幸せを第一に考えてくれるんです。「私も美味しいもの食べたいけど、そのために皆に貢がせるのは違うから。皆も美味しいものを食べる、その上で私のことを応援してほしいな」なんてよく言っているんですよ。王女様なのに」

 めんだこちゃんのことを語るアイワの眼差しは慈しみに溢れていた。

「私たちをとても愛してくれている彼女だからこそ、我々臣民も彼女を深く愛しているんです。少々責任感が強過ぎる部分はありますが、そんなところも彼女を信頼できる要素だったりします。私やインスさんを筆頭に、我々臣民一同はめんだこちゃんを敬愛しているんです」

「なるほど」

 先ほど、彼女が笑いかけたことで一気に臣民たちが落ち着きを取り戻したのを思い出し、ウィスカは納得する。

 彼女がいつも通りに振舞うのなら、臣民たちもいつも通りに笑顔を見せる。

 そして彼女を心配させることは、敬愛する彼女を悲しませてしまうことに繋がる。

 臣民たちの行動の節々にめんだこちゃんへの強い想いを感じて、ウィスカは何となく嬉しく感じた。

 まだ幼い姿をしているように見えた彼女だが、それだけ愛されているということは、彼女なりに素晴らしい王女様として振舞っているのだろう。

「さて、こちらなら――ああ、ちょうど誰も使わないようですね」

 いくつもの広場を通り過ぎ、アイワが場内を見るとちょうど訓練を終えたらしい兵士たちが談笑しながら出てくるところだった。

「お疲れ様です」

「こ、これはアイワ様! お疲れ様です!」

 すれ違う時、アイワが軽く会釈すると、兵士たちは浮足立った様子で敬礼を返した。

 それに笑顔を返して、アイワは場内へと入って行く。

「? ウィスカさん? どうされました?」

 ウィスカが兵士たちの嬉しそうな会話を目で追っていると、アイワが不思議そうにこちらを見てくる。

「アイワさんも、兵士さんたちから人気があるんですか?」

 彼らの様子から、ウィスカは小首を傾げながら場内に入りアイワと並ぶ。

 すらっと高い背に綺麗な姿勢、どことなくおっとりとした柔らかな印象を抱かせる雰囲気はめんだこちゃんとはまた少し違った女性らしさ、可愛らしさを感じさせる。

 彼女は困ったような顔で首を傾げてしまう。

「どうでしょう……女性が珍しいのかもしれませんね、このめんだこ帝国ですと」

 それだけが理由とはウィスカには思えなかったが、彼女はどうも本気でそう思っているようだった。それ以外に理由が思いつかない、と言いたげな様子で、彼女は不思議そうに遠ざかっていく兵士たちを見つめている。

「優しくしてもらえたり、丁寧に接してもらえるのは嬉しいのですが、私はただの臣民の一人ですから。それに、私のような夢見がちな女では男性も困ってしまうでしょうし」

「夢見がち、ですか」

「はい。……先ほど、めんだこちゃんの魔法は御覧になりましたよね? めんだこちゃんは夢を見て、叶える少女。対して私は、夢を見るばかりの女。これは似ているようで、大きく違うものなのです」

 少し悲しそうに、しかしきっぱりと、彼女は言う。

「私には力がない。夢を見ても、叶えるだけの力が。手を伸ばしたいと思っても、伸ばす手がなければできないでしょう? 私には、夢を見ることしかできないのです」

 アイワはそっと、空に向けて手を伸ばした。

 つられてウィスカが眺める空は、薄暗く、星も雲もない不思議な色合いをしていた。

 海底だからだろう、深い、深い藍色がそこには広がっている。よく見れば、輝く太陽のような何かはあるものの、それも目を凝らすうち、何か光る玉が吊るされているだけだというのが分かってしまった。

 不思議な空……いいえ、海? でしょうか?

 ここが海底だと言うのなら、この先には海が広がっていて、そのずっとずっと先に水面があり、波飛沫を超えたさらにずっと先には空がある。

 遠い、なんて遠い世界。

 そのことを思えば、彼らルルイエの民たちが地上から来た自分に興味を持つのは当然だとウィスカは納得した。

「私が夢見るのは、遥かな地上の世界。人々が暮らす、太陽の下の世界です。めんだこちゃんはきっと、いずれそちらを目指すことでしょう。地上の世界をも支配下に置こうと動くはずです。もっとも、恐怖と暴力による支配などではなく、友好的で宝物を扱うような、優しい手を取り合う手段でしょうけど」

 ふふ、と楽しそうに彼女は笑う。

 未来を夢想して、たくさんの人間に囲まれ、笑い、歌うめんだこちゃんの姿を瞳の中に映して、とてもとても嬉しそうに、笑う。

「でもきっとそこに私はいません。私は深海にしかいられない。めんだこちゃんは王女様で、魔法使い。私は海底でお姫様を手助けする魔女。自分のために使える魔法なんてものはなくて、彼女を後押しするばかりの力なき者。ああ、でもいいのです。私はそれでいい。それが全て、この立ち位置こそが、私の全て。ですから、ね、ウィスカさん」

 アイワはまるで少女のように、ふわりと笑顔を向けてくる。

 夢を語り、夢を見つめ、嬉しそうに楽しそうに、穏やかに、そしてどこか艶やかに、彼女はウィスカに笑いかける。

「どうか、あなたの力を見せてください。あなたのお話を聞かせてください。あなたの魔法を私に教えてください。あなたは私の夢の具現、ほんのひと時だけ許された、奇跡そのもの。どうか、私の夢の一部だけでも、叶えてはくれませんか?」

 そう言って、アイワはそっと、誘う様に右手を差し出した。

 熱く、強く語り掛けてくる彼女の瞳から、ウィスカは逃れることができなかった。

 なんて真っすぐな瞳でしょう。

 彼女の言葉に、ウィスカは優しく頷く。

「私で良ければ、いくらでも」

 まるで舞踏会のように、ダンスを誘われたお姫様のように、ウィスカは彼女の手を取る。

 そして、

「ではまず、こんなのはどうでしょうか?」

 ウィスカは辺りに満ちた魔力を束ね、残った手に小さな花束を作り出した。

 それをアイワに渡すと、ウィスカはそのまま周囲にたくさんの花を咲かせた。

 こちらに来てから、ウィスカは都市内に足りないものを感じていた。

 それは、植物。

 地上ではあちらこちらに生えていた植物の姿が、ここには一つも存在しなかった。

 花も、草も、木も生えていない、無機質な世界。

 もっとも、この都市の静けさは恐ろしさよりもどこか、包み込むような温かさすら感じたぐらいだったが。

「これは……?」

 不思議なものを見る目で、アイワはウィスカの生み出した花々を見つめる。

「これは花です。地上にはこういった植物がたくさん生えていまして、この花はそんな植物が育つと咲くものなんですよ」

 広場中にいくつも乱れ咲いた、たくさんの花々。

 それらは辺りにかぐわしい香りを放ち、海底都市にはほとんど存在していなかった鮮やかな色彩を生んだ。

 訓練のための広場を花畑に変えてしまったウィスカは、その中に腰を下ろしていくつかの花を組み合わせていく。

 茎と茎を絡ませて組み合わせ、次々に繋ぎ合わせていくとそれは少しずつ長く伸びていき、やがて端と端がくっついて輪になった。

「はい、どうぞ」

 隣に腰掛け、ウィスカの作業を眺めていたアイワの頭に、そっと花輪が乗せられた。

 色とりどりの花で作られた冠に、アイワが目を丸くする。

「戦うための魔法、守るための魔法、生活のための魔法……地上にある魔法はたくさんありますけど、こういったものの方が素敵かな、と思いまして。綺麗でしょう? どこもこんな景色、とはいきませんが、地上は素敵な場所なんです」

 ウィスカは静かに語りながら、また一輪、花を手に取る。

 今度は他の花と組み合わせることはせず、そのまま小さな輪を作る。 そして、先ほどと同じようにアイワの手を取ると、ウィスカは彼女の指にそっと、作った花の指輪をくぐらせた。

「私が見せられるのは、地上の似姿。でもきっと、いつか本当の花畑を見ることができるはずです。アイワさんがそう信じていれば、いつかきっと」

 アイワの手を優しく包み込んで、ウィスカは願うように告げた。

「だからどうか、諦めないでください。未来のことも、自分のことも、世界のことも。なんて、まだまだ私も知らないことだらけですけどね」

 誤魔化すように笑うウィスカに、惚けていた様子のアイワはハッと我に返り、花輪に軽く触れ、手元の指輪を嬉しそうに見つめた。

「ありがとう、ございます」

 そして、彼女は心から嬉しそうに、じっと指輪を見つめ続けていた。

 喜んでくれているのなら何より、とウィスカが思っていると、

「うわーっ! 何これ! 綺麗! すごい!」

 訓練場の入り口から、めんだこちゃんが入ってきた。

「めんだこちゃん、調査はもう終わったのですか?」

「うん、原因は分からなかったんだけど、発生源は突き止められたから明日行ってみよう、

ってことになったんだ」

「明日、ですか?」

 ウィスカは先ほどの怪物たちを思い出して不安げな表情を浮かべた。

 めんだこちゃんは強い。圧倒的な力を持っていたし、仮に新たな怪物が現れたとしても、彼女が相手をするならすぐに討伐できるだろう。

 だがしかし、それでも彼女の大切な臣民たちには危険が及ぶ可能性が高い。

 解決できるのなら、すぐにでも解決すべきできはないでしょうか?

 そんなウィスカの不安を吹き飛ばすように、めんだこちゃんはにっこりと満面の笑みを浮かべて見せた。

「今はね、インスが何人か警備の子たち連れて行ってくれてるんだ。必要があれば私も出向くけど、場所が場所でね……すぐにでも行きたいぐらいなんだけど、ちょっと私は行かない方がいいんだ」

 でも大丈夫、と彼女は笑顔で続ける。

「インスは強いよ! わたしみたいに魔法が使えるわけじゃないけど、槍捌きは海底一なんだから。連れて行った子たちも精鋭ばかりだし、問題なし!」

 彼女の言葉から感じる深い信頼に、ウィスカもひとまずインスたちを信じることにした。

 ここで自分がバタバタしても、彼女らに迷惑をかけるだけだ。

「それじゃ、そろそろ行こっか!」

「行く、って、どこにですか?」

 不意にウィスカの手を取り、めんだこちゃんは歩き出す。

「ふっふっふっ、それはね――」

 彼女はとてもとても楽しそうに、そして嬉しそうに笑う。

「めんだこちゃんのステージ!」

 笑顔の彼女に手を引かれて、ウィスカが辿り着いたのは大きな貝殻型のドームだった。

 巨大なシャコガイのようなドームは、中にいくつもの客席が用意されており、客席と向かい合う形で真っ白な幕が降ろされたステージが存在していた。

「言ってたでしょ、今夜はライブするよー、って!」

「あ、あんなことがあってもやるんですね……」

 苦笑いを浮かべるウィスカに、めんだこちゃんはにっこりと笑う。

「あんなことがあったからこそ、だよ。暗い話ばっかりだと落ち込んじゃうからね。もちろん、怪我したり大変だったりしたら休んだりするのは必要だし無理は禁物だよ? でも、休んでばっかじゃ何も始まらないでしょ? だからわたしは、笑うし、皆にも笑顔でいてほしいから歌ったりライブしたりするんだよ」

 うふふふ、とめんだこちゃんが笑いかけると、いつの間にか背後から集まってきていたらしい臣民たちが次々にドーム内に入って来る。

 ウィスカたちの横をすり抜け、次々に座席が埋まっていく。

 彼らは口々に楽し気な様子で会話をしたり、ライブに使うであろう光る棒を取り出したりと、各々が今か今かとライブが始まるのを待ちわびているようだった。

 彼らの顔には希望が満ちていた。

 めんだこちゃんのライブが、本当に彼らにとっては大切なことなのだろう。

 彼女の明るく楽し気な歌や言葉が、彼らには必要なのだろう。

 そしてそれはきっと、めんだこちゃん自身にとっても心の底から望むことなのだろう。

 ウィスカはそんな、彼らの発する空気に初めての感動を味わっていた。

 昔劇場で見たライブとはまた違う、熱気に包まれた会場内。荘厳で厳粛な雰囲気をしていた歌姫の歌とはまた違うものが、これから見られるのかもしれない。

「それじゃ、わたしは準備してくるね。ウィスカちゃん、特等席で楽しんで行って!」

 めんだこちゃんがそう言うと、いつの間についてきていたのか、すぐ後ろから現れたアイワがウィスカを客席の真ん中辺り、ステージが一望できる座席へと案内してくれた。

「こちらをどうぞ」

 先ほど渡した花冠や指輪はそのままに、アイワはどこからともなく光る棒を取り出してウィスカに差し出した。

「曲に合わせてこれを振るんです。いっぱい楽しみましょうね」

 アイワもどことなく、ワクワクしている様子だった。

 ウィスカはざわつく客席を見回し、そして幕が降りたステージを見つめ、渡された棒をぎゅっと握り締めた。

 郷に入っては郷に従え、ではないですが。

「今は、楽しませてもらいますね……!」

 何となく意気込んでしまうウィスカだった。

 そして、アイワや周りの臣民たちから軽くコールを教えてもらったりしていると、ドーム内にブザー音が鳴り響き、客席が暗くなっていった。

 対照的に、幕が上がったステージは眩いばかりの光であふれている。

「海の底からー、こんにちはー!」

 見れば、可愛らしいミニ丈の衣装に身を包んだめんだこちゃんがステージに立っていた。

 あちこちから「こんたこー!」「めんだこちゃーん!」と臣民の声援が飛び交っている。

 それに笑顔で手を振り返し、めんだこちゃんは嬉しそうに言う。

「今日は、なんと! 地上からのお客さんがいるんだよー! すごい! この調子で地上の人たち皆を呼んでライブができるぐらい、まだまだ頑張ってくから、これからも応援よろしくねー!」

 彼女の言葉に、ワッ、と客席が沸く。

 臣民たちの歓声が少し収まった辺りで、ドーム内に音楽が響き始める。

「ではでは、本日の一曲目! 『ゆめいろ♡コンフィチュール』!」

 可愛らしい音楽に合わせて、めんだこちゃんが歌って踊る。

 合わせて臣民たちの握る光る棒が揺れ動く。

 暗闇の中で光るいくつもの応援の気持ちが、まるで星空のようだった。

 この世界の空は薄暗く、星もないようだったけど、それでも美しい光景がないわけじゃないんだと、ウィスカは認識を改めた。

 ここには、めんだこちゃんがいる。

 彼女が生み出す暖かで素敵な人々の繋がりが、地上とはまた少し違う美しい景色を作り出している。

 それは人と人との繋がりが生み出す奇跡のようなもので、ウィスカは気づけば臣民たちと一緒になって声援を送り、棒を振り、歌に聞き入るのだった。

 だが、夢中になっている内に、あっという間に時間は過ぎていく。

 いくつもの曲を歌っためんだこちゃんが、

「次が最後の曲! 最後まで楽しんで行ってね!」

 と告げて歌い始めた辺りで、ウィスカはかなりの時間が経っていることに気が付いた。

 それでもかなりの高揚感が体を支配しており、めんだこちゃんの歌に合わせて腕を振るのも苦痛ではなく、ただただこの時間が終わることが悔やまれる気持ちでいっぱいだった。

 とはいえ、初めての形式のライブ、初めての長時間の応援ということもあり、歌が終わりめんだこちゃんが裏手に消えて行くと、急激に疲れと眠気が襲ってきてしまう。

「す、すごかったですね……」 

 味わったことのない衝撃に、軽くふらつくウィスカを見てアイワはにこやかに微笑みながらその背を軽く支えた。

「ふふ、慣れていないと圧倒されちゃいますよね。めんだこちゃんはいつもパワフルなんですよ」

 さ、こちらに、と優しく手を引かれ、ウィスカはアイワと共に客席を離れた。

 まだ興奮冷めやらぬ、といった具合に話している臣民たちの間を抜け、アイワに連れられて向かったのはステージの裏側だった。

「お疲れ様でした、めんだこちゃん」

 アイワが声をかけると、水分を取っていためんだこちゃんはウィスカたちに駆け寄ってきた。

 先ほどまでのステージの疲れを一切感じさせない様子に、ウィスカは感心してしまう。

 本当に、元気いっぱいです。

「二人も見てくれてありがと! どうだった?」

「すごかったです! 地上で見たことのあるライブとは違いましたけど、すごくキラキラしてて、楽し気で、何と言うか、その、力強かったと言いますか! 元気がもらえるような、素敵なステージでした!」

「ありがとー! 楽しんでもらえたなら良かったよー!」

「めんだこちゃんは、いつもあんなすごいライブを?」

「んーん、最初はもっと小さな規模だったよー。臣民も少なかったしね。でも続けてるうちに少しずつ臣民も増えていって、最近は今ぐらいの規模でできるようになってきたんだ。でもね! まだまだこんなものじゃわたしは終わらないんだよ!」

 めんだこちゃんは瞳をキラキラと輝かせて、両手を天に向けて広げる。

「もっともーっと! めんだこ帝国を広げていってね! 海底だけじゃなくて地上までも、全部をめんだこ帝国の傘下にするのがわたしの目標なんだ! 世界中を支配して、たーっくさんの人の前でライブしたり楽しくお話したり……うふふふ! 想像するだけで楽しみだよねー!」

 無邪気に語る彼女の夢は荒唐無稽ではあるものの、しかし、今日のステージを見たウィスカにはいつか、本当に彼女が目標を達するんじゃないかと、予感せずにはいられなかった。

 選んでいる言葉こそ乱暴に聞こえるが、めんだこちゃんの目標はあくまでも平和的なもの。そんな支配者がいてもいいのかもしれない、なんてことをウィスカも考えてしまう。

 彼女による世界統一は、ある意味で真の世界平和と呼べるのかもしれない、なんて。

「ねえねえウィスカちゃん、もし良かったら――」

「めんだこちゃん」

 と、さらに会話を続けようとするめんだこちゃんの言葉を遮って、横からアイワが声をかける。

「実は、ウィスカさんを連れてきたのは、彼女を早めに休ませてあげるためなんです。どうもお疲れの様子でしたので、ご挨拶だけしてもらって、お部屋に案内しようと思いまして」

「ええっ、ホント? 大丈夫?」

 心配そうに見上げてくるめんだこちゃんに、ウィスカは笑顔を返す。

「大丈夫ですよ。確かに少し疲れはありますけど、無理してるわけではありませから」

 しかし、それでもめんだこちゃんはまだ納得していない様子だった。

「そうなの? でも、うん、深海に来たばっかだもんね、いろいろ疲れちゃうのも仕方ないよね。アイワ、一応客室まで付き添ってあげて」

「はい、もちろんです。ウィスカさん、行きましょう」

 促すアイワに頷いて、ウィスカはめんだこちゃんに軽く手を振る。

「明日、もし私も協力できることがありましたら、すぐに呼んでくださいね」

「うん! 今日はありがとう!」

「はい、こちらこそ!」

 笑顔で別れ、ウィスカはアイワと共に城内の客室へと戻った。

 最初に出向いた時とは打って変わって、臣民が誰もいない分物静かな室内には、お香だろうか、甘い香りが漂っていた。

 部屋に入ったウィスカは、急激な眠気に目を擦りながら、ベッドの方へと歩いて行く。

 思っていた以上に疲れてしまっているのだろうか、意識を保つのも難しい。

 緩やかに薄れていく意識の中で、ベッドになんとか倒れ込み、うつ伏せのまま少しずつ、ウィスカは微睡みに落ちていく。

「それでは、おやすみなさい。良い夢を……」

 静かなアイワの声が聞こえたような気がして、ウィスカは瞼を閉じた。

 

 

『夢の旅人よ』

 目を閉じ、体は眠ったままの脳裏に、声が響く。

 低く、荘厳な声音が、ゆったりとウィスカの意識そのものに訴えかけるようにして、何者かが語りかけてきた。

『我が眷属の目を覚ます手伝いをしてほしい』

 相手を捜そうとしても、声の主がどこにいるのか見当もつかない。

 そもそも、この脳内に響く声は、本当に『声』なのだろうか?

 何者かの意識が、想いが、そのまま流れ込んできているかのような奇妙な感覚。

『偶然がお前を呼んだ。繋がりを作ってしまった。夢と現実の境に今お前はいるのだ』

 『声』に対して返事を返そうにも、体は動かず、目も開かない。

 ああ、きっと、今自分は夢の中にいるのだろう。そんなことだけが、どういうわけか確証もなく理解できた。

 そして夢を通して、この『声』は語りかけている。

『お前だからこそ、救うことのできる者がいる。お前だからこそ、閉ざすべき扉がある。お前だからこそ、切るべき繋がりが生まれている』

 『声』の主に、ウィスカはどことなく、恐ろしくも優しい印象を抱いていた。

 奇妙な体験、恐怖すら抱かせる超常的な現象を目の当たりにしているものの、その結果もたらされる語りかけは、大切な誰かを心配する親愛の想いに満ちていたからだ。

『全てを終わらせるのだ。それがなされた時、お前はきっと、元の世界に戻ることができるだろう』

 全てを終わらせる、とは?

 何を終わらせるのでしょうか?

 あなたは一体?

 私に何をしてほしいんですか?

 いくつもの疑問が浮かぶものの、『声』は何一つとして答えようとしない。

 そもそも、いくら疑問を浮かべても、それを口に出すこともウィスカはできずにいた。

『我にできるのは、こうして言葉をかけるのみ。扉が開かれてしまえば、この幸福に満ちた夢は覚めてしまうことだろう。我が眷属も、我が孫も、全てが覚めてしまえば気が付くだろう。己の愚かな行いに。だが、それは我が本意ではない』

 やがて、目を閉じたままだと思っていた視界に、薄っすらとした光が差し込んでくる。

 そこでウィスカは気が付く。

 彼女が立っていたのは一切の光も差し込まない漆黒の闇であったということに。

『さあ、目を開け、旅人よ。そして、夢から覚めるのだ。全てを終え、断ち切り、現へと帰るために動くのだ』

 白い光が少しずつ強くなっていき、ウィスカの視界が覆われていく。

 と、その時、ウィスカは背後に何者かの気配を感じた。

 この気配が『声』の主だろうか、と思い、振り返ろうとした瞬間、体が動くことを突然拒否した。

 本能が、ダメだ、と告げている。

 ここで振り向けば、何もかもが、終わる。

 そしてその終わりは、先ほどから『声』が言っているようなものではなく、文字通り、自分自身の全てが終わる、というものだ。

 そんな強烈な感覚が、恐怖とも狂気とも呼べそうな直観が、ウィスカの足をただただ前に進めた。

 光はさらに強くなっていく。

 その中へとゆっくりと足を踏み入れて行き、やがて視界の全てが白に包まれ――

「……えっ?」

 ウィスカは気が付けば、見知らぬ土地に立っていた。

 これまで見てきた海底都市の建物たちとはまた違った意匠の建物が、背後に一つ。

 地面はやけに真っ白で平らだ。周囲はいくつもの岩で覆われ、どことなく、隠されているかのような印象を受ける場所だった。

 唯一岩の間に広がっている隙間は、舗装され通路となっているようだ。

 背後の建物に目をやると、巨大な白い柱と何かが描かれた真っ黒な扉が目についた。タコのような何かが、暴れ回っている図……だろうか。

 建物からおぞましいものを感じ、ウィスカが視線を通路の方に戻すと、

「……なっ、なぜここに?」

「えっ、インスさん?」

 そこには、数名の警備兵を連れたインスの姿が見えた。

 彼らは、ウィスカと視線が合った瞬間、即座に槍を構える。

「えっ、えっ」

 困惑しながらウィスカは敵意がないと示すため両手を挙げた。

 そんな彼女に、インスも困惑気味に警備兵たちを止める。

「ウィスカ殿、なぜ、あなたが夢見の神殿に……?」

「夢見の神殿、って、ここの名前ですか?」

 状況を分かっていないまま、ウィスカは首を傾げる。

 インスは少し考えた後、

「ウィスカ殿、申し訳ないが、一時的にあなたを拘束させていただきたい。私としてはあなたを信用したいと思っている。ゆえに、あなたの善意と協力的姿勢を示してほしいのだ」

「えっ、えーっと……」

「私たちがここに来た理由は、察することができるだろう?」

 彼らがここに来た理由。

 考えられるとすればそれは、

「さっきの怪物たち、ですか?」

「そうだ。我々はその原因、元凶を突き止めるべく、こちらに来た。そして、来てみればあなたがいた、というわけだ」

「あ、なるほど……それは確かに、疑われても仕方ないですね」

 ウィスカは納得して、ひとまず両手を前に差し出す。

「じゃあ、拘束してください。そちらの方が、後ろの方々も安心しますよね」

「ああ、すまない」

 ウィスカの手に、最初に出会った時と同じように枷がはめられる。

 あまりにスムーズな投降に、警備兵たちは不思議そうな顔をしていた。

「お前たち、周囲の警戒と探索を任せたい。こちらは私が受け持とう」

「は、はい!」

 警備兵たちはインスの言葉に敬礼をして散開しようとした。

 しかし、

「それは困りますねぇ」

 不意に聞こえてきた声に、彼らの動きが止まる。

 夢見の神殿、と呼ばれた建物の陰から、声の主が現れると同時、ウィスカたちの頭上に影が落ちる。

 咄嗟にウィスカが爆発魔法を放つと、影ははじけ飛び、周囲にびちゃびちゃと粘着質な液体が降り注いだ。

 それらはずるずると体を引きずり、這い、集まり、少しずつ合体していく。

「あらあら、この子を一撃ですか。恐ろしいですこと」

 対した恐れも抱いていない様子で現れた彼女は、柔らかく微笑んだ。

「アイワさん……」

「こんばんは。ずいぶんあっさりと意識が戻りましたねぇ」

 ウィスカは彼女の言葉に答えるより先に、集まり始めているゼリー状の何かに向けて氷の魔法を使用した。あっという間に凍り付いたそれは、しばらく鈍く動いた後、完全に凍り付いて動かなくなった。

「その言い分ですと、私がここに来たのも、あなたが?」

「はい。あなたが必要だったのです、ウィスカさん」

 アイワは地面で凍り付いた何かに目もくれず、笑顔を浮かべたままだ。

 あまりにも落ち着いた様子の彼女に、むしろ不気味さを感じ、ウィスカは警戒を強める。

 そんな二人のやり取りを聞き、慌ててウィスカの拘束を解いていたインスが声をかけた。

「アイワ殿! まさか今回の騒動はあなたが!?」

 信じられない、といった様子の彼に、アイワは今まで通りの柔和な態度で答える。

「ええ。私が全て行ったことです」

「なぜです? 我々は共にめんだこ様に忠誠を誓った臣民でしょう! あなた程の方が、どうして帝国を危険に晒すような真似を!?」

「……私には、どうしても叶えたい願いがあるのです」

 アイワはそう言って、一冊の本を取り出した。

 それを見て、ウィスカの全身に怖気が走る。

 濃密な海底都市の魔力。中でも、この神殿周囲は特に濃密な魔力が満ちていた。

 しかしその中にあっても、はっきりと分かる、圧倒的強さと異質さを放つのが、アイワの持つ本だった。

 あまりにも不気味で、感じたこともないような性質の魔力を、その本は異常なまでに蓄えている。

「しかし私には、魔法は使えません。夢を叶える力もなければ、願いを叶えてくれる魔法使いが手を差し伸べてくれることもない。私はお姫様ではないのですから、当然ですね?」

 彼女はどこか遠くを見つめながら、ゆっくりと本を開く。

 その中から、凄まじい魔力が噴き出すのと同時、ウィスカは咄嗟に防壁を展開した。

 半透明の壁に、本から出現した数体の怪物が突進する。それらは自身が傷つくことも顧みず、暴れ、爪や牙を防壁に突き立てんと迫った。

 先ほど現れた炎を吐く獣たちだ。

「幸せな結末を約束してくれる王子様は、私を見つけてはくれないのです。暗く寒い海底にいるうちは、そうなのでしょう」

 彼女が再び本を捲り、開いたページを地面に向けると、今度は本の中からずるりと人型の何かが落ちてきた。

 どちゃり、と地面に倒れたそれは、体のあちこちが崩れ、腐り、一部が白骨化までしている明らかな死体だった。

 死体は虚ろな瞳を開くと、うめき声をあげながら、ウィスカたちの方へと向かってこようとしている。本から次々に落ちてきたそれらは、瞬く間に数を増やしていた。

「だから私は、外に出ることにしたのです。この海底都市を出て、地上に出ることに決めたのです。人魚姫だって、地上に出ることができたからこそ、王子様と出会えたのですから」

 熱っぽく語るアイワの目はもはやウィスカたちを見ていなかった。

 彼女の意識はきっと、この海底のずっと先にあるはずの地上に向けられているのだろう。

「足を失えば地上に行けるのでしょうか? 声を失えば地上に行けるのでしょうか? ナイフを愛する人たちに突き立てれば叶うのでしょうか? どれも、私には違う様に思えました。そんな時に出会ったのです、この本に。この力に。この魔法に」

 アイワは死体を召喚するのを止め、再びページを捲る。

 そして最後に呼び出したのは、巨大なゼリー状の体を持つ怪物だった。

 先ほどウィスカたちにけしかけたものより、一回りも二回りも巨大なそれは、四肢のようなものを動かし、防壁に向かって今にも跳んでこようとしていた。

「もう少しでたどり着けるのです。鍵は二つ。一つは今ここに。そしてもう一つもすぐに手に入ります。この力があれば、必ず……!」

 獣や死体の攻撃を受け、ウィスカの張った防壁は限界が近づいていた。

 ウィスカは防壁の強化と維持を続けながら、インスに声をかける。

「インスさん、戦えますか!?」

「む、無論だ!」

 呆然としていた彼らは、ウィスカの言葉に我に返り、槍を手に取る。

 彼らが自分の身だけでも守ってくれるなら、やりようはある。

「私が魔法である程度道を開きます! 一緒にアイワさんを止めてください! 他の方も援護をお願いします!」

「了解!」

 彼らが力強く返事するのと同時、防壁が音を立てて砕け散る。

 そして、怪物たちが一斉に飛び掛かってきた。だが、

「じゃあ――行くわよ!」

 ウィスカを中心に、炎が巻き起こり、大量にいた怪物たちは一斉に灰と化した。

 竜巻のような炎はそのまま空中をうねり、アイワの正面で体を膨らませていたゼリー状の怪物にぶつかる。

 そして炎が晴れた時、怪物たちの群れの中に焼け焦げた道が出来上がっていた。

「今よ!」

「ああ!」

 掛け声に合わせて、インスとウィスカが走り出す。

 先を走り、ウィスカは迫る怪物たちに小さな爆発をいくつも浴びせ、インスが進むのをサポートする。

 その背後では、仲間の警備兵たちが残った怪物に槍を突き立てていた。

「アイワ! あんた、聞いてれば好き勝手なこと言うわね!」

 人差し指をアイワに向け、緋色の衣装に身を包んだウィスカが叫ぶ。

 感情の高ぶりが、彼女の姿を変化させる。

 怒りを強く感じた今、ウィスカは赤の魔力を纏い、薄紅の髪を揺らして炎と共に怪物たちの間を駆け抜けていた。

「叶えたい夢があるですって? それは結構! でもね! そのために誰かを傷つけていいわけがないでしょうが! 何を犠牲にしてでも叶えたい願いなんてのはね、気の迷いでしかないのよ! あんたは絶対に後悔する! もし地上に辿り着けたとしても、こんな形で叶えた願いが、あんたを幸せにしてくれるわけないじゃない!」

 迫るウィスカたちに向けて、アイワは加えて怪物を召喚し対応する。

 砂のようなもので体中が汚れた二足歩行の動物が二体、おぞましい叫び声をあげ、かぎ爪をウィスカに向けて振るった。

 そいつらの一体はインスによって首を撥ねられ、もう一体はウィスカが起こした火柱に飲み込まれて消えていった。

「もうやめて、アイワ! こんなことをしても、何も得られはしないのよ!」

「……いいですね、何もかもを持っている方は。そのようなことを、無責任に言えるのですから」

 ウィスカの言葉に、アイワは反発するように後ずさり、さらにページを捲る。

 次に現れたのは、巨大な翼を持つ翼竜に似た怪物だった。しかし嘴や、虫のような器官を持つ姿が妙にアンバランスであり、それが不気味さを強調しているように見えた。

「私にはもう、こんなことぐらいしか思いつかないのです。自分自身では決して叶えられない願いならば、自分の力を超えたものに願う。それの何がいけないのでしょう? 御伽噺の世界では、いつだってそうして主人公たちは助けられてきたのです。いくつもの本を読み、資料を漁り、研究を繰り返し、私がたどり着いた結論がこれなんです! どうか、どうか邪魔をしないでください!」

 アイワは必死に叫び、涙を流していた。

 その姿に、ウィスカはぎり、と歯噛みをする。

「それでは、ダメなんです……きっとあなたがたどり着く結末は……悲しく空しい未来になってしまう……!」

 ウィスカもまた、彼女の悲痛な叫びに、深い悲しみを感じていた。

 小さな少女のような、可愛らしくささやかな夢。

 それが彼女の根幹だとするのならば、こんな形で叶えようとしているのは間違っている。

 絶望で形作られた希望の未来など、きっと、明るくなりようがない。

「ここで止められれば、あなたはきっと悲しむでしょう……ですが、ですが! ここで止まれなかった時のあなたはきっと、それ以上の悲しみを背負うことになってしまう。私は、それが悲しい……だから私は、あなたを止めるのです……」

 ウィスカはそっと涙を流し、深い藍色に染まった髪を揺らして現れた怪物に対し手を向ける。

 喪服のような衣装に身を包み、吠える怪物にウィスカの手が触れると、その体が動きを止め、端から崩れ始めた。

 命そのものを吸い取り枯らす魔法が、怪物を終わらせる。

「ここまでにしましょう……どうか、もう、これ以上は……」

 ウィスカの圧倒的な力を前に、アイワは後ずさり、本をギュッと抱き締めて首を横に振る。

「嫌、嫌です! やっと辿り着けそうなんです! あなたを呼んで、ここまで来たのに! あと少しなんです! ようやくここまで準備が整ったのに! こんなところで終わりだなんて、そんなのは嫌!」

 そんな彼女に、ウィスカは悲し気に目を伏せる。

 静かに、淡々と、この騒ぎを終わらせるための魔法を、とウィスカが手を向けたその時、

「ま、待ってくれ、ウィスカ殿!」

 ここまで一緒に来ていたインスが、不意にウィスカとアイワの間に入って声をあげた。

「どうか、彼女に罪を償わせるチャンスをくれないだろうか! 彼女はただ一生懸命なだけなのだ! アイワ殿も、ここまでにしましょう! めんだこ様ならきっと話せば分かってくださるはずだ! だから!」

 彼の真剣な言葉に、ウィスカが躊躇した瞬間、アイワは再び本を開いていた。

「邪魔をしないで……私は、私は、王子様に会うんだ……!」

 うわごとのように呟く彼女の瞳は焦点が定まっておらず、もはや正気を失ってしまっているように見えた。

 嫌な予感がして、ウィスカは咄嗟にインスを突き飛ばし、障壁を展開する。

 しかし、本から放たれた魔法が、ウィスカを障壁ごと吹き飛ばした。

 凄まじい衝撃と痛みに、ウィスカはパニックを起こしそうになりながらもなんとか治癒魔法を駆使して正気を保った。

 まるで巨大な拳に殴り飛ばされたかのような、あまりにも理不尽で強力無比な一撃。

 骨がいくつか折れてしまったかもしれない。下手をすれば内臓にまでダメージが入っていることだろう。

 口の中ににじむ血の味に、ウィスカは判断を誤ってしまった、と急いでアイワを見た。

 彼女は本を開き、虚ろな目で何かしらの呪文を詠唱していた。

 あの呪文が完全に唱え終わったら、終わりだ。

 そんな予感に、ウィスカは歯を食いしばってどうにか進もうとする。だが、体中に走る激痛に、思わず膝をついてしまうのだった。

 急いで止めなきゃいけないのに、体に力が入らない。治癒魔法をどれだけ急いでかけても、治りきる頃には詠唱は終わってしまうだろう。

 それではダメだ。

「お願い、します……!」

 ウィスカは地面に手を当て、ゴーレムを呼び出す。

 地面が平らな地面が盛り上がり、立ち上がった人型がアイワに向かって駆け出すものの、詠唱を続ける彼女の周囲には結界のようなものが張られているのか、彼女の手前でゴーレムたちの動きは阻まれてしまった。

 インスはと言えば、突き飛ばされたまま呆然とアイワの方を見ている。

 このままでは、どうすることもできない。

 いけません、このままでは、アイワさんも、インスさんも、めんだこちゃんも、皆が悲しむ結末がやって来てしまう!

 ウィスカは皆の幸せを願い、想い、気力を振り絞った。

 肉体の治癒を続けながら、彼らを思う気持ちを糧に、翠の翼を広げる。

「まだ、終わりませんよぉ……!」

 歯を食いしばり、立ち上がったウィスカが新たな魔法を放とうとした時、

「お待たせーっ!」

 空から落ちてきた流星のような一撃が、アイワの周囲を覆う結界に叩き込まれる。

 見れば、そこにはステッキを握っためんだこちゃんがいた。

「めんだこちゃん!」

「遅くなってごめんね! ウィスカちゃん、もうちょっとだけ手伝ってほしいな!」

「はい、もちろんっ!」

 ウィスカはぎゅっと胸の前で手を組み、魔力を練り魔法を編む。

 その力は結界を破らんと杖を振るめんだこちゃんに流れていき、彼女の力をさらに強く、確かなものへと変えていく。

「アイワ! これ以上は、ダメなんだからねっ!」

 一撃、二撃、と叩き込まれるめんだこちゃんの攻撃に、ウィスカの力が乗り、アイワの周囲を包む結界にヒビが入る。

「幸せを掴むのは臣民の義務! でもね! 今のわたしにはアイワが幸せなようにはちっとも見えない!」

 言葉と共に、重く鋭い打撃が放たれ、それまで虚ろな目をしていたアイワが、ふと、めんだこちゃんを見つめる。

 彼女の瞳からは涙が零れ、口はもはや彼女の意志とは関係なしに詠唱を続けている。

 だが、その表情がわずかに歪み、悲しそうなものに変わった。それを見ためんだこちゃんが、不敵に笑う。

「そんな顔もダメだよっ! 臣民は皆、笑顔でいなきゃ! だから、わたしが、わたしたちが!」

 天高く振り上げられたステッキの上に魔力が集っていく。

 先ほどの怒りに任せた恐ろしいものとはまた違う、しかしはっきりと強力であることが分かる力が、顕現しようとしていた。

 ウィスカは彼女の力に合わせて、魔力をコントロールする。

 めんだこちゃんの持つポテンシャルを、全身全霊で発揮できるように、祈るように力を込める。

「アイワを助けるよ! ウィスカちゃん!」

「はい!」

 ウィスカが力を届けると、めんだこちゃんの頭上に集まる力がいっそう強力な気配を帯び、そこから空間を歪ませ、凄まじい煌めきが放たれた。

 星の奔流とでも呼ぶべき、輝く夢のような虹色の光線が、アイワを覆う結界にぶつかる。

 凄まじくも、どこか温もりを感じる光が、辺りを照らし尽くした。

 視界を奪われるぐらいのあまりにも強い煌めきに、ウィスカは目を細める。

 そんな視界の向こうで、光の中、ゆったりと歩くめんだこちゃんが見えた。

 彼女はアイワにそっと近づき、へたり込んでいる彼女の手から本を受け取り、優しく頭を撫でる。

「一人で抱えちゃ、ダメだよ?」

 優しく笑うめんだこちゃんの姿に、アイワは彼女を見上げたまま、今度は大粒の涙を零しながら泣き出した。

 そんな彼女を撫でてやるめんだこちゃんの手の中で、本はゆっくりと、光に溶けるようにして消えていく。

 やがて、周囲を覆った光は薄れていき、全てが消えた時、残っていたのはめんだこちゃんに抱き着いて泣きじゃくるアイワの声だけだった。

 

 

「いやー、一件落着! 良かった良かったー」

 うふふふふ! と笑うめんだこちゃんだったが、ウィスカは苦笑いを浮かべるしかなかった。

 客間に二人、向かい合って座る横には、すっかり落ち着いた様子のアイワと、落ち込んでしまったまま暗い顔のインスがいた。

 今回の出来事……ウィスカが海底に来たことも含めて、全てはアイワが行ったことだと、彼女の口から告げられた。

 散々泣いた後、やっと落ち着いた彼女が全てを白状したのだ。

 夢見の書、と彼女が呼んでいた魔本を見つけた彼女は、地上の存在、この海底都市とは違う世界に暮らす人間を呼び出すという術式を行使した。

 結果、ウィスカが召喚され、彼女は魔本に記された術を使おうと動いたのだという。

 その術というのが、地上に住む者であり魔法を使えるウィスカと、夢を叶える魔法を持つめんだこちゃんを利用したものだった。

 二人を夢見の神殿に呼び寄せ、術式を発動させ捧げることで、異なる世界への扉を開く、というものが彼女の目的とした魔法らしい。

 しかし、計画は失敗に終わった。

 ウィスカを操り、神殿にまで連れてくるのは良かったものの、めんだこちゃんが騒ぎに駆けつける頃には捧げる魔法どころではなかったのだから。

「それで……アイワ?」

「は、はいっ!」

 めんだこちゃんから声をかけられ、アイワは居住まいを正した。

 何を言われても仕方がない、と覚悟した顔で続く言葉を待つ彼女に、めんだこちゃんは深呼吸の後、口を開いた。

「あなたには罰を受けてもらいます。……これからもわたしの大事な臣民として、日々を生きること。困ったり、悩んだり、叶えたい夢があるなら私に相談すること。そして私にもう一度忠誠を誓って、今回迷惑をかけた皆にごめんなさいをすること! よろしい?」

 少しおどけた様子のめんだこちゃんに、アイワは目を丸くした。

「そ、そんなことでいいのですか?」

「そんなことー? このわたしに忠誠を誓うのが、そ、ん、な、こ、とぉー?」

「い、いいえ! 私、私は……!」

 もっと重い罰を受けるべきでは、と言いたげな彼女に、めんだこちゃんは笑顔で告げる。

「別にこの程度のことではめんだこ帝国は揺るがないんだから。むしろこれでアイワがいなくなっちゃう方がわたしは嫌だもん。だからね、これからも私と一緒に楽しく過ごしてほしいんだ。ダメ?」

 そんな彼女に、アイワは涙ぐみながら首を横に振った。

「ダメなんかじゃないです……めんだこちゃん、私、本当に、本当になんてことを……ごめんなさい。そして、ありがとうございます。これからも、私を臣民として、ここに置いてくれますか?」

「もっちろん!」

 じゃ、仲直りの握手ね! とめんだこちゃんに手を差し出され、アイワはその手をそっと握った。

 理想の王子様との出会いは叶わなかったかもしれないけど、理想の王女様とは出会えているみたいですね、なんてことを、二人のやり取りに思うウィスカだった。

 そしてそのまま、めんだこちゃんは落ち込んでいるインスに顔を向ける。

「そしてインスも! いつまで落ち込んでるの?」

「私は、警備兵長の身でありながらウィスカ殿を危険な目に……」

「もー、それはウィスカちゃんもいい、って言ってくれてるでしょー? ねぇ?」

 話を振られたウィスカは、それに頷きを返す。

「インスさんにとって、アイワさんがそれだけ大事な人だってことですもんね。仕方がないことですよ。この通り、怪我もすっかり治りましたし、気にしないでください」

 笑顔で言うウィスカだったが、それでもインスは申し訳なさそうな顔で俯くばかりだった。

 そんな彼を見て、めんだこちゃんはため息をついた。

「よーし、それなら私から命令を下しましょう」

 コホン、とわざとらしく咳払いをして、めんだこちゃんは人差し指をインスに突きつけた。

「インス、あなたはアイワと一緒に謝罪回りをすること! アイワは一応大変なことをしたわけだし、監視役を任命します! ついでにたくさんお話してみたらいいと思う! というわけで、アイワ、さっそくインスと一緒に行ってきなさい!」

 めんだこちゃんはそう言うと、二人を立ち上がらせて、追い出すように彼らを送り出した。

 困惑した様子のインスに対し、めんだこちゃんが何かしら耳打ちすると、彼は緊張した面持ちでアイワを連れて部屋の外に出て行った。

 何となく、めんだこちゃんがした耳打ちの内容は予想がつく。

 ウィスカは初々しいインスの姿に微笑ましさを感じつつ、内心でこっそり応援するのだった。

「インスはねー、ああいうところで奥手なのが良くないよね」

「ふふ、真面目だからこそ、ですよね」

「まあねー、そこが良いところでもあるんだけど」

 そして、残されたウィスカの向かいに再び座っためんだこちゃんは、ふと、真剣な表情でウィスカを真っすぐ見つめた。

「ウィスカちゃん」

「……はい」

 彼女の真面目な雰囲気に、ウィスカも背筋を伸ばし、真剣に耳を傾ける。

「今回は、たくさん迷惑かけちゃってごめんなさい。わたしの臣民たちがたくさん巻き込んじゃった。女王としてまだまだ未熟な私の監督不行き届きです、本当にごめんね」

「いえ、めんだこちゃんが悪いわけじゃ……」

「それでも、だよ。わたしは、わたしの臣民が迷惑をかけたりしたら、やっぱり気になっちゃうから。だから謝らせて」

 そう言って頭を下げる彼女に、ウィスカは「分かりました、謝罪を受け取ります」と静かに告げ、頭を上げさせる。

「これで、私たちの間に禍根はなし、です。めんだこちゃんもそれでいいですよね」

「うん、ウィスカちゃんがそれでいいなら」

 そして、二人は笑い合った。

 この出会いは偶然であり、彼女の臣民が暴走してしまった結果起こった奇跡のようなものである。

 しかし確かに、二人は思う。

 この人と出会えて、良かったと。

「そうだ! ライブの後に言いかけたことなんだけどね?」

 喜びの気持ちも束の間、不意に、ウィスカを急激な眠気が襲う。

 抗いがたい、あまりにも強烈な欲求。意識が薄れ、世界が遠のく。

 目を擦るウィスカに気付かず、めんだこちゃんは話を続けた。

「ウィスカちゃんもライブに出てみない? 一緒に歌ったり、踊ったり!」

 めんだこちゃんの言葉はとても楽し気で、彼女はたまらず立ち上がり、大仰な身振り手振りを交えながら目を輝かせて語る。

 しかし、ウィスカはそれに答えることもできずに、ぼんやりと聞くばかりだ。

「でねでね? そのためにもまずはウィスカちゃんを臣民として迎え入れたいと思うんだ。もちろん、旅を続けたい、って言うなら止めないけど。でも臣民にはなってほしいなー! 離れてても、心は一緒にいられるはずだから!」

 ね! と同意を求めて振り返るめんだこちゃんの目が見開かれる。

「ウィスカちゃん!? どうしたの!?」

 瞼が重く、視界が閉じていく。

 ウィスカの体は少しずつ透け、今にも消えてしまいそうになっていた。

 悲しそうな、そして心配そうなめんだこちゃんに笑いかけ、ウィスカはそっと彼女の頭を撫でる。

「また……必ず……」

 そんなウィスカの手を取り、めんだこちゃんは涙を浮かべながら、うん、うん、と何度も頷いた。

 やがて完全にウィスカの意識は闇に消え、眠りについてしまった。

 

 

 瞳が完全に閉じられたのと同時、そこにいたはずの少女は泡のように消えてしまった。

 まるで、幻でも見ていたかのような気持ちで、しかし、その手にしっかりと残る温もりを握り締めるようにして、めんだこちゃんは呟く。

「またね、ウィスカちゃん」

 そして、彼女は満面の笑みを浮かべた。

 きっとまた会える。

 その時には、めんだこ帝国をもっともっと大きな国にしてみせるんだ。

 ああ、今からでも彼女の驚く顔が目に浮かぶ。

 想像するだけでも楽しくなる未来を夢見ながら、彼女は臣民たちに呟く自分を称える言葉を呟く。

「いあ! いあ! めんだこちゃん、ふたぐん!」

 そしてぐっ、と右拳を突き上げた彼女は、「よーし、頑張るぞー!」といつもの日常に戻っていくのだった。

 

 

 ふと、ウィスカは闇の中で意識だけが覚醒していることに気が付く。

『夢の旅人よ』

 聞こえてきた声に、ウィスカはまた、何かに巻き込まれてしまっているのかと身構える。

 しかし身動きは取れず、世界は闇に包まれたままだ。

『我が眷属たちを救ってくれて感謝する。ささやかな礼をさせてもらった。どうか、何かに役立ててくれ』

 『声』の主に向けて、ウィスカは強く念じる。

 あなたは、めんだこちゃんたちの味方、なのですか?

『……味方、どうであろうな。これからも微睡みの淵より見守る者、といったところか』

 ウィスカの念に軽く答え、『声』は続ける。

『これでお前は現世に戻ることになる。またいつか、世界が繋がることもあるかもしれん。その時は――』

 そして、世界に光が訪れる。

 最後の言葉が聞き取れず、聞き返そうとするウィスカを眩い光が包み込んでいく。

 やがて光が世界に満ち、

「ん、んん……?」

 気が付くと、ウィスカは机に突っ伏して眠っていた。

 旅の途中、立ち寄った宿で読書をしているうちに眠ってしまっていたらしい。

 夢を見ていた。

 不思議な、そして楽し気な、海底都市の住民たちとの出会いの夢。

 大変な思いもしたけれど、総合して素敵な夢だったと思う。忘れるのが惜しいくらいに。

「忘れないうちに、日記に書いておきましょうか」

 ウィスカは日記帳を取り出し、開きっぱなしになっていた本を閉じようとする。

 そこに描かれていた海の景色が、その中で泳ぐ様々な生き物たちが、ウィスカに向かって笑いかけたような気がしたのは……きっと、気のせいなのだろう。

 

 

 

                              ―おわりー

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